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一般社団法人 相模カンツリー倶楽部 http://www.sagamicc.org/

TEL. 046-274-3130

〒242-0008 神奈川県大和市中央林間西七丁目1番1号

倶楽部の歴史


1945 〜 1950
(昭和20年 〜 昭和25年)
敗戦、再出発

昭和20年(1945年)8月30日午後2時5分、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官は愛機パターン号で、沖縄から厚木飛行場に到着した。サングラスにコーンパイプをくわえた丸腰の司令官は、ここで「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い、そして困難な道のりだった。」との有名な言葉を残した。

畑と化していたコースは、いつの間にか背丈ほどもある雑草に覆い尽くされていた。クラブハウスも荒れ果てたままだ。会員も離散して連絡さえとれない人が少なくなかった。久しぶりにコースに足を運んだ人たちは、呆然と立ち尽くすばかりだった。有力理事の間からも放棄論が叫ばれ、進駐軍に徴用されればよいとの声も出た。だが、昭和20年10月、理事会は白熱した議論の末、自力による再開を決定した。

東京急行電鉄から15万円を借り入れ、コースの復旧作業に着手し、12月上旬になって、ようやく5・9・10・11・18番ホールが不完全ながらも「プレー可能」の状態になった。
理事会は、昭和21年1月2日を再開日と決め、会員に通知、会員にとってはそれは夢のような知らせだった。
「進駐軍第131エンジニア部隊(旧陸軍通信学校跡に駐留)の将校団クラブとして、ハウス及びコースを使用したい」との申し込みが飛び込んできたのは、やっと再開の目処がついた、まさにその時である。断れば接収されることは分かりきっていた。交渉に交渉を重ね、クラブハウスの2階は将校団専用のクラブとし、会員は予定通りプレーできることで妥協が成立した。東京・程ヶ谷・霞ヶ関・小金井・川奈・軽井沢・神戸・宝塚・名古屋といった倶楽部が次々に接収されていく中で、これは異例のことだった。

一難去ってまた一難とはこういうことを言うのだろうか。接収を免れ、再開まであと2週間に迫った昭和20年12月18日深夜、クラブハウスが焼失してしまった。
開場以来、会員に愛されてきたアントニン・レーモンド設計のクラブハウスは消え去った。無残にも暖炉の煙突の残骸だけが、さびしくそそり立っていた。火元は2階で、クリスマスの準備中の火の不始末からだった。

戦後のクラブハウス

手書きのスコアカード

再建の夢は消えたかに思われた。しかし、クラブハウス焼失という痛手も、倶楽部再建にかける人々の熱意をくじくことはなかった。昭和21年2月26日、第19回定時総会は、クラブハウスの再建とコースの復旧を決め、12月、40坪ほどのクラブハウスがほぼ完成した。コースも予定の5ホールの目処が立ち、昭和22年1月2日、予定より1年遅れて仮開場にこぎつけた。こうして、ようやく戦後の第一歩を踏み出すことが出来たのである。
18ホールが揃うのは、さらに1年半後の昭和23年6月になってからである。今日のような食堂はなく、会員たちはみんな弁当持参でプレーした。
「相模再建」のニュースは、瞬く間に広がり、進駐軍に接収されてプレー出来ずにいた他倶楽部の会員たちは、相模への入会を希望し、理事会は正会員枠を拡大して、これらの人たちの受け入れを決めた。

みんな貧しかった。コンペの賞品はホウキ・カゴ・・・
奥さんへの手土産だった。

昭和24年、手狭になっていたクラブハウスの増築工事が完成、プレーヤーの増加でグリーンの痛みが激しいため、サブグリーンが設置されることになり、井上誠一氏に設計・監修を依頼し、昭和25年5月末頃から工事を始め、10月には完成した。今日のツーグリーン・システムの基礎が出来たのは、この時である。