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一般社団法人 相模カンツリー倶楽部 http://www.sagamicc.org/

TEL. 046-274-3130

〒242-0008 神奈川県大和市中央林間西七丁目1番1号

倶楽部の歴史


1951 〜 1971
(昭和26年 〜 昭和46年)
相模の三色旗はためく

相模カンツリー倶楽部の「戦後」を語るのに、女性会員たちの活躍を抜きにすることは出来ない。
「特筆すべきは戦後アマチュアゴルファーによるゴルフの日米交流であろう。その微笑ましい交流は神奈川県の相模カンツリー倶楽部ではじまった。」「大戦で中断した女子ゴルフ界は戦後、日本に駐留した米軍の家族と日本人ゴルファーとの間で、相模カンツリー倶楽部を舞台にして開かれた親善マッチをきっかけに再開され、ついで日本のゴルフ界全体が復活ムードに乗った。」などと『日本ゴルフ協会七十年史』は相模での日米交流、特に女性ゴルファーたちの果たした役割を称賛している。交流は昭和27年から31年まで続いた。

女性たちの日米交流

座間キャンプにて

相模の選手たち

シニアたちも元気である。70歳以上の会員による第1回敬老杯が開催されたのは、昭和27年4月のこと。参加者は相模の基盤を築いた大先輩たちである。以来、毎年、参加者は増え続け、昭和38年の第14回大会から倶楽部の公式競技になった。今は、その習慣がなくなったが、その頃は、揃いの赤チョッキを着てプレーした。大軍団が10番の池に赤い影を落として記念撮影する光景などは「日本一の壮観」と言われたものである。

赤チョッキ軍団

朝、相模に着くと、我々はコースに出る前に先ず練習場で一打ちするが、その練習場が東側の1,000坪を買収して拡張され、ほぼ、今の形になったのは昭和26年のことである。「倶楽部付属の練習場としては、恐らく比肩するものなし」と言われたほど、当時としては際立って広く充実したものだった。
昭和28年には高麗の本グリーンがベント化された。もともとはベントグリーンだったが、戦後の出発のとき、ベントの種子が手に入らず、高麗グリーンになっていた。この本グリーンは16年後昭和44年から4年がかりで、ハイランド種からペンクロスベントに張り替えられ今日に至っている。
一方、昭和25年に井上誠一氏の設計で設けられたサブグリーンは、昭和30年代に入って36年までに大幅に改造・拡張された。こちらは高麗芝だった。これもベント(サウスショア)に変わるのは平成になってからである。

原野の中のコースも、いつしか周りに住宅が建ち並びはじめた。コース保全のため、昭和37年にコースの周囲に金網を張り巡らせた。さらに5番には防球ネットを張った。
念願のクラブハウスが完成したのは、昭和40年である。戦後、資材不足の中で再建されたクラブハウスは増築に増築を重ねても、何かと不便をかこち、会員の間からは本格的な建て直しを望む声が高まっていた。
カントリー風のクラブハウスは誠に親しみやすく、大屋根が特徴である。18番ティーインググラウンドに立った時、彼方に見えるクラブハウスが、まるで早く戻ってらっしゃいと手招きしてくれるような思いに捉われる。平屋建てで、食堂で一服したあと、地続きでそのままコースに出られる便利さも、相模でないと味わえない。このようなクラブハウスはおそらく相模のほかにあまりないだろう。

アントニン・レーモンドによる初代クラブハウスの設計図

アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤー。世界のゴルフ界の頂点にいたBIG3が相模にやってきて模範演技を披露したのは、昭和41年11月4日だった。タイムライフ・インターナショナル社の好意によるもだったが、ニクラウスは68、プレーヤー70、パーマーは75でラウンドした。ニクラウスの300ヤード・ドライブが観客の度肝を抜いた。