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一般社団法人相模カンツリー俱楽部
〒242-0008 神奈川県大和市中央林間西七丁目1番1号TEL:046-274-3130
1931年(昭和6年)9月27日、相模カンツリー俱楽部は9Hで仮開場した。設計者である赤星六郎氏は、1917年(大正6年)から1925年(大正14年)まで米国に留学(ローレンスビルスクール~プリンストン大学)した。 その間ゴルフを習得したのみならず、1924年(大正13年)パインハーストで開催されたスプリングトーナメントで優勝するなど卓越したプレーヤーとしての足跡を残した。帰国後、1927年(昭和2年)にアマチュアとして参加した 第一回日本オープンに優勝するなど、既にプレーヤーとしての実力、名声には揺るぎないものがあった。
赤星氏が留学した時期の米国は、ボビー・ジョーンズやウオルター・へーゲンが活躍し、また現在米国で名門コースと言われるコースが、マッケンジー、ロス、コルトら今に伝えられる名設計家によって続々と生み出された近代ゴルフの開花期であった。 そうしたゴルフのプレー、設計など近代ゴルフ開花の有様を見て帰国した赤星氏は、東京ゴルフ俱楽部朝霞コースの設計のために来日していたチャールズ・H・アリソンに同行し、その手法や思想を間近で吸収し、コース設計についての自身の思想をさらに進化させ、 相模コースの設計に臨んだ。赤星氏は「ゴルフ・アーキテクチュアと言うものは、ただ幾何学的でのみ進むことが定石でもあり、また必要な事ではあるが、その内にアーキテクト自身の持っている芸術的な和かさが織り込まれた時で無ければ、そのゴルフ場が理想的なものになったということはできない。 今度私が相模カンツリー俱楽部ゴルフコースを造るについても、最も留意したのはこの点である。」「各ホールは私自身が抱いている夢と理想の実現であると思っている。」と語っているが、そのスピリットは、赤星氏が単独で設計した中で唯一現存するコースである相模に今も息づいている。
間もなく100周年を迎える相模カンツリー俱楽部は、もともとゴルフを始めたばかりの若い会員が主体となり、戦前、戦中、戦後から現在に至る中で、会員と俱楽部関係者が共に幾多の苦難を乗り越え、赤星氏が設計したコースと理想を受け継いできた。 コースを愛し、一歩門を潜れば皆平等の精神のもと、友情に溢れた雰囲気。それは昔も今も変わることはない。
草創のとき
1931 - 1937(昭和6年から昭和11年)
暗雲の下で
1937 - 1945(昭和12年から昭和20年)
敗戦、再出発
1945 - 1950(昭和20年から昭和25年)
相模の三色旗はためく
1951 - 1971(昭和26年から昭和46年)
半世紀が過ぎて
1972 - 1988(昭和47年から昭和63年)
平成の時代
1989 - 2003(昭和元年から昭和15年)
100周年に向けて
2004 -(平成16年~)
1931 - 1936(昭和6年 - 昭和11年)
1931年(昭和6年)9月27日仮会場式の記念写真
相模カンツリー俱楽部の所在する相模野一帯は元々相模川が作りだした扇状地上にある。地表に流水はなく明治期以前には野原か、一部が桑畑などの畑作として利用されるだけであった。ここに東京、横浜に近く至便であり、将来住宅地として有望であるとして、「林間都市構想」が計画される。そして住宅地に隣接したゴルフ場として、相模カンツリーの設立が企画された。幸い扇状地であるが故に揚水により利用できる地下水は脈々と貯えられており、芝を育成する理想的な水資源を有していた。現在でもこの地下水はコースへの散水の他、俱楽部で有効に使用されている。
設立当時は電車での交通手段はまだまだ不便であり、横浜線の町田駅からの乗合自動車が用意されるなど、現在では考えられない環境ではあった。当時の特別な階層だけでなく、所謂東京の企業に勤務するサラリーマンへの会員募集も積極的にすすめられ、ようやく1931年(昭和6年)9月27日に9ホールでの仮開場にこぎつけるに至った。
(造成中の相模CC)
(設計者 赤星六郎氏)
(アントニン・レイモンド氏の設計による初代クラブハウスと設計資料)
相模は設立時、ゴルフ人口が増える中で、ゴルフを始めたばかりの入会者が多い俱楽部ではあった。しかしそうした中で、決して卑俗に流れることはなく、マナー、ルールを学び、その品位を保持することを目標とした。そしてゴルフ技術の錬磨と共にゴルフ道の顯揚、フェローシップの確保を大切に、現在に至る相模色が醸造されていった。
また赤星六郎氏設計のコースは、コースをプレーした全てのゴルファーを魅了する存在として評判になり、開場後わずか4年後の1935年(昭和10年)には日本プロ、1937年(昭和12年)には日本オープンが開催されるに至っている。
1935年(昭和10年)日本プロ戸田藤一郎プロ (優勝者)のバンカーショット(10番)
1937年(昭和12年)日本オープン 陳清水プロ優勝パット(18番)
1937 - 1945(昭和12年 - 昭和20年)
昭和12年頃の女性キャディ
開場以来順調に発展を続けてきた相模であったが、昭和12年7月の盧溝橋事件勃発を機に次第に世相が厳しくなってくる。昭和7年4月に刊行を開始した会報にも、会員の動向として出征が報じられるようになる。従業員も次第に応召され、掲載内容は「時局に鑑み」としてすべて自粛ムード一色になった。男性キャディの採用が困難となったため、新たに女性キャディの採用を開始したが、これは川奈を除き関東では初めての試みであり、大いに注目された。
昭和12年頃のコース(現在の12番)
昭和12年頃のコース(現在の6番)
大山を遥かに望む昭和12年頃のコース
昭和13年4月には、事変特別税として練習ボール、会費に至る全ての料金に10%が課税される。またゴム資源確保のためゴルフボールの製造が禁止されるに至る。会報に使用する用紙も次第に粗悪なものになり、ついに用紙の調達難から昭和15年10月で休刊されることとなった。(その後会報の発行は戦後昭和26年9月に再開されたが、その間相模は危機的な時期を乗り越えねばならなかった)戦時中も競技会や他俱楽部との対抗戦は行われていたが、車での来場や華美な服装も自粛せねばならず、さらに応召される会員や従業員が増えていった。
昭和16年12月の対米英戦争への突入とともに相模を取り巻く環境はますます厳しくなっていき、会員や従業員、所属プロの応召もさらに増加した。ゴルフ用語は敵性用語として全て日本語への変更を余儀なくされ、俱楽部名も「社団法人相模打球會」に変更することになった。競技は昭和19年2月の月例まで続けられた。昭和19年3月からは食糧増産のため9ホールを畑や軍の研究所用地として差し出しを要求され、20年4月には陸軍農耕隊が全ての土地を徴用し、ここにゴルフ場としての利用はできなくなってしまう。このような相模の困難な歴史は昭和20年8月15日の終戦後も続くことになる。
1945 - 1950(昭和20年 - 昭和25年)
終戦後の相模復活への動きは早かった。畑と化していたコースは、いつの間にか背丈ほどもある雑草に覆いつくされていた。クラブハウスも荒れ果てたままだった。会員も離散し、連絡さえとれない人が少なくなかった。久しぶりにコースに足を運んだ人たちは、呆然と立ち尽くすばかりであった。有力理事の間からも放棄論が叫ばれ、むしろ進駐軍に徴用されればよいとの意見やコースの売却論も出る。しかし議論の末、理事会は昭和20年10月、自力による再開を決定する。すぐにコースの復旧作業に着手し、12月上旬、ようやく5、9、10、11、18番ホールが不完全ながらもプレー可能な状態になった。理事会は昭和21年1月2日を再開日と決め会員に通知。会員にとってそれは夢のような知らせだった。
戦後すぐの俱楽部門
「進駐軍第131エンジニア部隊の将校団クラブとして、ハウス及びコースを使用したい」との申し出があったのは、やっと再開の目途がついたまさにこうした時期であった。断れば接取されることは明らかである。交渉の結果、クラブハウスの2階は将校団専用のクラブとし、会員は予定通りプレーできることで協議が成立する。東京、程ヶ谷、霞ケ関、小金井、川奈、軽井沢、神戸、宝塚、名古屋といった俱楽部が続々と接収されていく中でこれは異例のことで、当時日本人がプレーできる俱楽部として存続できたのは、相模と我孫子だけであった。しかし一難去ってまた一難とはこういうことを言うのだろうか。接収を免れ、再開まであと2週間に迫った昭和20年12月18日深夜、クラブハウスが焼失してしまう。開場以来会員に愛されてきた、アントニン・レイモンド氏設計のクラブハウスは消え去った。火元は2階で、クリスマスの準備中の火の不始末からだった。
戦後の2代目クラブハウス(増築後)
再建の夢は消えたかに思われた。しかしクラブハウス焼失という痛手も、俱楽部再建にかける人々の熱意をくじくことはなかった。昭和21年2月26日、第19回定時総会はクラブハウスの再建とコースの復旧を決めた。12月には進駐軍から提供された廃材も利用しながら、質素な40坪ほどのクラブハウスが完成する。コースも予定の5ホールの目途が立ち、昭和22年1月2日、予定より1年遅れて仮開場にこぎつける。こうしてようやく戦後再開の第一歩を踏み出すことが出来たのである。18ホールが揃うのはさらに1年半後の昭和23年6月になってからである。その時、今日のような食堂はなく、食料事情も厳しい中、会員たちはみんな弁当持参でプレーした。「相模復興」のニュースは瞬く間に広がり、進駐軍に接収されてプレーできずにいた他俱楽部の会員たちはこぞって相模入会を希望し、理事会はこれらの人たちの受け入れを決定する。これは進駐軍に対して「関東南部で唯一日本人がプレーできるゴルフ俱楽部」であると説明し、接取を免れる努力をしてきたことも一因である。尚この時期の会員・俱楽部関係者の、接取を回避するための進駐軍との交渉や取り組みは、クラブハウスの設備もわざわざ簡素なものに留めておくなど涙ぐましいものであった。旧軍から引き継いだ進駐軍施設に囲まれた相模が接取を免れ、戦後すぐに日本人ゴルフ復興の先駆けとなりゴルフができることは、以後の我が国復興への一筋の光ともいうべきことであった。
1951 - 1971(昭和26年 - 昭和46年)
女性たちの日米交流
座間キャンプにて
相模の選手たち
相模カンツリー倶楽部の「戦後」を語るのに、女性会員たちの活躍を抜きにすることは出来ない。「特筆すべきは戦後アマチュアゴルファーによるゴルフの日米交流であろう。その微笑ましい交流は神奈川県の相模カンツリー倶楽部ではじまった。」「大戦で中断した女子ゴルフ界は戦後、日本に駐留した米軍の家族と日本人ゴルファーとの間で、相模カンツリー倶楽部を舞台にして開かれた親善マッチをきっかけに再開され、ついで日本のゴルフ界全体が復活ムードに乗った。」などと『日本ゴルフ協会七十年史』は相模での日米交流、特に女性ゴルファーたちの果たした役割を称賛している。交流は昭和27年から31年まで続いた。
赤チョッキ軍団
シニアたちも元気である。70歳以上の会員による第1回敬老杯が開催されたのは、昭和27年4月のこと。参加者は相模の基盤を築いた大先輩たちである。以来、毎年、参加者は増え続け、昭和38年の第14回大会から倶楽部の公式競技になった。今は、その習慣がなくなったが、その頃は、揃いの赤チョッキを着てプレーした。大軍団が10番の池に赤い影を落として記念撮影する光景などは「日本一の壮観」と言われたものである。朝、相模に着くと、我々はコースに出る前に先ず練習場で一打ちするが、その練習場が東側の1,000坪を買収して拡張され、ほぼ、今の形になったのは昭和26年のことである。「倶楽部付属の練習場としては、恐らく比肩するものなし」と言われたほど、当時としては際立って広く充実したものだった。昭和28年には高麗の本グリーンがベント化された。もともとはベントグリーンだったが、戦後の出発のとき、ベントの種子が手に入らず、高麗グリーンになっていた。この本グリーンは16年後昭和44年から4年がかりで、ハイランド種からペンクロスベントに張り替えられ今日に至っている。一方、昭和25年に設けられたサブグリーンは、昭和30年代に入って36年までに大幅に改造・拡張された。こちらは高麗芝だった。これもベント(サウスショア)に変わるのは平成になってからである。原野の中のコースも、いつしか周りに住宅が建ち並びはじめた。コース保全のため、昭和37年にコースの周囲に金網を張り巡らせた。さらに5番には防球ネットを張った。念願のクラブハウスが完成したのは、昭和40年である。戦後、資材不足の中で再建されたクラブハウスは増築に増築を重ねても、何かと不便をかこち、会員の間からは本格的な建て直しを望む声が高まっていた。カントリー風のクラブハウスは誠に親しみやすく、大屋根が特徴である。18番ティーインググラウンドに立った時、彼方に見えるクラブハウスが、まるで早く戻ってらっしゃいと手招きしてくれるような思いに捉われる。平屋建てで、食堂で一服したあと、地続きでそのままコースに出られる便利さも、相模でないと味わえない。このようなクラブハウスはおそらく相模のほかにあまりないだろう。アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤー。世界のゴルフ界の頂点にいたBIG3が相模にやってきて模範演技を披露したのは、昭和41年11月4日だった。タイムライフ・インターナショナル社の好意によるもだったが、ニクラウスは68、プレーヤー70、パーマーは75でラウンドした。ニクラウスの300ヤード・ドライブが観客の度肝を抜いた。
1972 - 1988(昭和47年 - 昭和63年)
50周年の記念植樹のヤマモモ雌雄
昭和47年(1972年)7月、佐藤栄作首相が7年8か月の在任記録を残して退陣した後、「列島改造論」を掲げた田中内閣が誕生した。公共事業が拡大されて開発ブームが起き、48年4月に建設省(当時)が発表した地価は前年比30.9%、さらに49年には32.4%というすさまじい暴騰ぶりだった。宅地はわずか2年で2倍になるところも出た。第4次中東戦争をきっかけに「石油ショック」が起き、激しいインフレは「狂乱物価」と呼ばれた。
コースの整備は引き続き進んだ。昭和47年、4ヶ年計画で進められてきたベントグリーンへの張り替え工事が終わった。翌年には、3,700万円かけて、全グリーンに自動散水装置を設置した。石油ショック」「円高不況」にも関わらず、ゴルフ熱は収まらなかった。昭和48年には来場者51,269人と、相模開場以来の新記録となり、49年も5万人を超えた。戦前は1万人、戦後は2~3万人で推移してきただけに、驚くような数字である。相模では創立50周年を期に様々な事業・工事が進められ、昭和54年12月、キャディハウス改築工事完成、55年3月、新駐車場完成、同年7月コース管理事務所完成、風呂場の増改築。また、地域社会への協力の証として、この年から大和市民ゴルフ大会にコースを提供することになった。さらに近隣の幼稚園の遠足や市民運動会、ゲートボール大会などにもコースを開放した。これらにサービスは現在も続いているが、これは公益社団法人としての役割にも合致している。また、地元大和市や相模原市の福祉団体にも、毎年、寄付を続けている。
正面玄関わきのフラッグポールは、50周年の記念事業として再建されたものである。もともとは、10番の練習グリーン近くに立っていたが、昭和16年ごろのある夜、落雷により2つに折れ、姿を消してしまったといわれている。わが国には珍しいマスト型フラッグ・ポールで、相模の名物でもあった。これは設計者のアントニン・レーモンドが「英国セントアンドリュースのR&Aゴルフクラブがフラッグポールとして、19世紀にお茶の輸送などに活躍した大型快速帆船カティーサーク号のメインマストを使っているが、相模でもどうか」と提案したのが始まりだったと伝えられている。レーモンドは多分、船をイメージしたというクラブハウスとのマッチングを考えたのだろう。
1989 - 2003(平成元年 - 平成15年)
現16番ホール、ティーイング・グラウンド付近
相模のコースは赤星六郎が設計した。赤星は大正末期にアメリカに留学、プリンストン大学ゴルフ部員として鳴らし、トーナメントにも優勝した。帰国後は昭和2年の第1回日本オープンに優勝、安田幸吉、浅見緑蔵らのプロたちを指導するなど傑出した存在だった。彼は、昭和5年から6年にかけて東京ゴルフ倶楽部(朝霞)や廣野の設計のために来日した英国のチャールズ・アリソンに同行、その設計思想や技術に影響を受けたコース設計家でもあった。日本のゴルフ界の大功労者だつたが、昭和19年、敗血症のため44歳の若さで亡くなった。相模はその赤星が残した最初の、そして傑作コースとして世に知られてきた。
ただ、18万坪に欠ける相模は、決して広いとは言えない。 よく言われることは、相模のコースは中央部はゆったりしているのに対し、外側が窮屈、ということである。 これについて、当時、周囲は原野で、はるかに丹沢・大山の山並みが眺められたことから、 芸術家肌の赤星は豊かな周囲の空気を取り込むために境界ホールをギリギリに寄せたのだという見方もあるが、 ゴルフ場にはOBゾーンが必要であり、赤星は3・6・7・15番の各ホールで場外の雑木林をOBゾーンに考えたのだというのが有力のようだ。 当の赤星は「私のコース設計家としての夢と理想を相模で実現した」としか語っておらず、 コース造成中に赤星と会ったという会員の一人が「敷地が狭いから距離の長いコースがとれない。 その代わり飽きないコースを作ってやるよ、と六郎さんは言っていた」との証言を残しているくらいである。
15番ホールの改造設計図面
昭和62年、理事会の下にコース検討委員会が設けられ、更に平成3年2月には一歩進めて「コース改造計画検討委員会」が設置された。同年3月〜9月に改造最終案を作るまで10回の委員会を開催、平成3年12月4日、臨時総会は「コース改造実施」を決定した。平成4年、第1期工事として、2・3・8番にサブグリーンを造成、7・15番に本グリーンを造成した。平成5年、第2期工事、7・15番にサブグリーン造成。総工費は、約3億5000万円を要した。
2004 ~ (平成16年 ~ )
毎年夏には、KGA主催によるジュニア・スクールにゴルフ場を提供
赤星六郎設計のコースを念頭に置き、「原点回帰」を掲げて、コース整備が続けられた。また、大地震に備え、築40年のクラブハウスの補強工事が平成18年に行われた。
平成19年から、地域貢献の一環としてドクターヘリの発着に練習場を提供
相模には、一年の掉尾を飾る伝統の行事がある。毎年12月30日夕、その年の打ち納めを楽しんだ会員たちであふれたクラブハウスで、それは行われる。西の空、大山のかなたに夕日が沈むころ、『蛍の光』の大合唱が始まり、そして万歳三唱。過ぎ行く年に謝し、来る年に更なる発展を願う、これが相模恒例の行事なのである。そこにはゴルフを愛する人々が集まっている。一歩倶楽部の門をくぐれば、何の隔てなく、あるのはただ長幼の序のみ、である。
平成18年、2006年。相模カンツリー倶楽部は創立75年の記念すべき朝を迎えた。この75年間に、相模カンツリー倶楽部でプレーした人の数は、延べ284万5,764人(平成18年7月1日現在)に達した。(平成26年12月31日現在で318万3,165人)相模のコースは、一言でいえば「挑戦者には褒美を、逃げる者にはペナルティを与える」チャンピオンコースだ。意気込み十分の挑戦者を今日も待っている。ここに至る道は決して平坦なものではなかった。先輩たちがその道を歩み、バトンを受け継いだ我々は今、100年の年輪を重ねるべく新たな歩みを始めている。
※倶楽部の歴史は、「相模カンツリー倶楽部75年史」より抜粋しました。