昭和4年4月1日小田急江ノ島線が開通。 昭和6年9月27日、相模CC9ホール仮開場。設計・赤星六郎。
アマチュアでプロを抑えて唯一人日本オープン選手権に優勝したゴルフ界の偉人だ。
設計したコースは、相模CC、我孫子GCの2コース。
相模CCは処女作である。今や数少ない貴重な文化遺産である。
設計の赤星六郎は、相模CCについて、「私自身が抱いている夢と理想の表現であると思っている」と語っている。
また「幾何学的でなく芸術的なものに理想をこめた」とも。
草創のとき
1931 〜 1936
昭和6年 から 昭和11年
ここに一枚の古い写真がある。
プレー姿の人々に混じって背広の紳士たちもいる。
みんな晴れやかで、誇らしげである。
昭和6年(1931年)9月27日、相模カンツリー倶楽部は、
その長い歴史を刻みはじめた。
初代キャプテンの伊藤文吉氏(右)
とコース設計者の赤星六郎氏
新装になったクラブハウス
すでに一部2階建てのカントリーロッジ風のクラブハウスは
完成していた。赤星六郎が「私の夢と理想を表現した」というコースも
かたちになってきた。6月11日、一足早く練習場が使用可能になった。
そして9月27日の仮開場となったのである。
しかし、それはあくまでも仮のオープンに過ぎなかった。
フェアウェイの芝生は元禄張り、
切り倒した松の切り株がいたるところに残り、
66箇所のバンカーにはまだ砂が入っていなかった。
グリーンとは名ばかり、フェアウェイの一部をていねいに
刈り込んだものだった。
一日千秋の思いでその日を待ち続けていた会員たちは、
そんなコースでもゴルフが出来るという喜びを爆発させたのだった。
正式に開場祝賀競技を開催したのは昭和8年7月のことである。
暗雲の下で
1937 〜 1945
昭和12年 から 昭和20年
昭和12年には、女性キャディの採用にも踏み切っている。
男子キャディが時局柄、工場などに移り、
会員やゲストの増加に対応できなくなったからである。
川奈に次いで2番目のことだった。
女性キャディの登場
昭和12年といえば、我が国の歴史が大きく転換した年でもあった。
7月、盧溝橋事件が勃発して日中は全面戦争に突入、戦況は泥沼化した。
翌13年には、国家総動員法が公布され、戦時体制の確立、
戦費をまかなうため、「ゴルフ入場税」が導入された。
ボールも配給制になった。
そして、昭和16年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃、
太平洋戦争がはじまった。日本ゴルフ協会は「キャディの全廃、
ゴルフ道具の携帯禁止」通達を出した。
昭和18年、外来語が禁止されたため、球童(キャディ)、砂窪(バンカー)などと言い換えられ、相模カンツリー倶楽部も「社団法人 相模打球会」と改称。12月19日の忘年競技会最後に、一切の競技が行われなくなった。
競技が復活するのは戦後の昭和22年になってからである。
昭和19年7月、陸軍の第9科学研究所の研究用地として9ホールに徴発命令、昭和20年4月、敗色濃厚の中、陸軍農耕隊の駐屯が決定、農耕隊はイモ・カボチャなどの増産のため、グリーン、バンカーをも取り崩して開墾を始めた。ここに至って、倶楽部は臨時総会を開き、「相模打球会」の休場を決定、これが最後だと多くの人が思った。
まだ4ホールほど手付かずのうちに、8月15日の終戦を迎えた。
もはやゴルフコースとはいえぬ荒涼たる光景があとに残った。
敗戦、再出発
1945 〜 1950
昭和20年 から 昭和25年
昭和20年(1945年)8月30日午後2時5分、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官は愛機パターン号で、
沖縄から厚木飛行場に到着した。サングラスにコーンパイプをくわえた丸腰の司令官は、
ここで「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い、そして困難な道のりだった。」との有名な言葉を残した。
手書きのスコアカード
みんな貧しかった。
コンペの賞品はホウキ・カゴ・・・
奥さんへの手土産だった。
畑と化していたコースは、いつの間にか背丈ほどもある雑草に
覆い尽くされていた。クラブハウスも荒れ果てたままだ。
会員も離散して連絡さえとれない人が少なくなかった。
久しぶりにコースに足を運んだ人たちは、呆然と立ち尽くすばかりだった。
有力理事の間からも放棄論が叫ばれ、進駐軍に徴用されればよいとの
声も出た。だが、昭和20年10月、理事会は白熱した議論の末、
自力による再開を決定した。
東京急行電鉄から15万円を借り入れ、コースの復旧作業に着手し、
12月上旬になって、ようやく5・9・10・11・18番ホールが
不完全ながらも「プレー可能」の状態になった。
理事会は、昭和21年1月2日を再開日と決め、会員に通知、会員にとってはそれは夢のような知らせだった。
「進駐軍第131エンジニア部隊(旧陸軍通信学校跡に駐留)の将校団クラブ
として、ハウス及びコースを使用したい」との申し込みが飛び込んで
きたのは、やっと再開の目処がついた、まさにその時である。
断れば接収されることは分かりきっていた。交渉に交渉を重ね、
クラブハウスの2階は将校団専用のクラブとし、会員は予定通りプレー
できることで妥協が成立した。
東京・程ヶ谷・霞ヶ関・小金井・川奈・軽井沢・神戸・宝塚・名古屋と
いった倶楽部が次々に接収されていく中で、これは異例のことだった。
一難去ってまた一難とはこういうことを言うのだろうか。接収を免れ、
再開まであと2週間に迫った昭和20年12月18日深夜、クラブハウスが
焼失してしまった。開場以来、会員に愛されてきたアントニン・
レーモンド設計のクラブハウスは消え去った。無残にも暖炉の煙突の
残骸だけが、さびしくそそり立っていた。火元は2階で、クリスマスの
準備中の火の不始末からだった。
再建の夢は消えたかに思われた。しかし、クラブハウス焼失という痛手も、
倶楽部再建にかける人々の熱意をくじくことはなかった。
昭和21年2月26日、第19回定時総会は、クラブハウスの再建とコースの
復旧を決め、12月、40坪ほどのクラブハウスがほぼ完成した。コースも
予定の5ホールの目処が立ち、昭和22年1月2日、予定より1年遅れて
仮開場にこぎつけた。こうして、ようやく戦後の第一歩を踏み出すことが
出来たのである。18ホールが揃うのは、さらに1年半後の昭和23年6月に
なってからである。今日のような食堂はなく、会員たちはみんな弁当持参
でプレーした。「相模再建」のニュースは、瞬く間に広がり、進駐軍に
接収されてプレー出来ずにいた他倶楽部の会員たちは、相模への入会を
希望し、理事会は正会員枠を拡大して、これらの人たちの受け入れを決めた。
昭和24年、手狭になっていたクラブハウスの増築工事が完成、プレーヤーの
増加でグリーンの痛みが激しいため、サブグリーンが設置されることになり、
井上誠一氏に設計・監修を依頼し、昭和25年5月末頃から工事を始め、
10月には完成した。今日のツーグリーン・システムの基礎が出来たのは、
この時である。
相模の三色旗はためく
1951 〜 1971
昭和26年 から 昭和46年
女性たちの日米交流
座間キャンプにて
相模の選手たち
相模カンツリー倶楽部の「戦後」を語るのに、女性会員たちの活躍を抜きにすることは出来ない。
「特筆すべきは戦後アマチュアゴルファーによるゴルフの日米交流であろう。
その微笑ましい交流は神奈川県の相模カンツリー倶楽部ではじまった。」
「大戦で中断した女子ゴルフ界は戦後、日本に駐留した米軍の家族と日本人ゴルファーとの間で、
相模カンツリー倶楽部を舞台にして開かれた親善マッチをきっかけに再開され、ついで日本のゴルフ界全体が復活ムードに乗った。」
などと『日本ゴルフ協会七十年史』は相模での日米交流、特に女性ゴルファーたちの果たした役割を称賛している。
交流は昭和27年から31年まで続いた。
赤チョッキ軍団
アントニン・レーモンドによる初代クラブハウスの設計図
シニアたちも元気である。70歳以上の会員による第1回敬老杯が
開催されたのは、昭和27年4月のこと。参加者は相模の基盤を築いた
大先輩たちである。以来、毎年、参加者は増え続け、昭和38年の
第14回大会から倶楽部の公式競技になった。
今は、その習慣がなくなったが、その頃は、揃いの赤チョッキを着て
プレーした。大軍団が10番の池に赤い影を落として記念撮影する
光景などは「日本一の壮観」と言われたものである。
朝、相模に着くと、我々はコースに出る前に先ず練習場で一打ちするが、
その練習場が東側の1,000坪を買収して拡張され、
ほぼ、今の形になったのは昭和26年のことである。
「倶楽部付属の練習場としては、恐らく比肩するものなし」と言われたほど、
当時としては際立って広く充実したものだった。
昭和28年には高麗の本グリーンがベント化された。
もともとはベントグリーンだったが、戦後の出発のとき、
ベントの種子が手に入らず、高麗グリーンになっていた。
この本グリーンは16年後昭和44年から4年がかりで、
ハイランド種からペンクロスベントに張り替えられ今日に至っている。
一方、昭和25年に井上誠一氏の設計で設けられたサブグリーンは、
昭和30年代に入って36年までに大幅に改造・拡張された。
こちらは高麗芝だった。
これもベント(サウスショア)に変わるのは平成になってからである。
原野の中のコースも、いつしか周りに住宅が建ち並びはじめた。
コース保全のため、昭和37年にコースの周囲に金網を張り巡らせた。
さらに5番には防球ネットを張った。念願のクラブハウスが完成したのは、
昭和40年である。戦後、資材不足の中で再建されたクラブハウスは
増築に増築を重ねても、何かと不便をかこち、会員の間からは
本格的な建て直しを望む声が高まっていた。
カントリー風のクラブハウスは誠に親しみやすく、大屋根が特徴である。
18番ティーインググラウンドに立った時、彼方に見えるクラブハウスが、
まるで早く戻ってらっしゃいと手招きしてくれるような思いに捉われる。
平屋建てで、食堂で一服したあと、地続きでそのままコースに出られる便利
さも、相模でないと味わえない。
このようなクラブハウスはおそらく相模のほかにあまりないだろう。
アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤー。
世界のゴルフ界の頂点にいたBIG3が相模にやってきて模範演技を
披露したのは、昭和41年11月4日だった。
タイムライフ・インターナショナル社の好意によるもだったが、
ニクラウスは68、プレーヤー70、パーマーは75でラウンドした。
ニクラウスの300ヤード・ドライブが観客の度肝を抜いた。
半世紀が過ぎて
1972 〜 1988
昭和47年 から 昭和63年
50周年の記念植樹のヤマモモ雌雄
昭和47年(1972年)7月、佐藤栄作首相が7年8か月の在任記録を残して退陣した後、
「列島改造論」を掲げた田中内閣が誕生した。
公共事業が拡大されて開発ブームが起き、48年4月に建設省(当時)が発表した地価は前年比30.9%、
さらに49年には32.4%というすさまじい暴騰ぶりだった。宅地はわずか2年で2倍になるところも出た。
第4次中東戦争をきっかけに「石油ショック」が起き、激しいインフレは「狂乱物価」と呼ばれた。
50年史(昭和58年12月発行)
40年ぶりに復活したフラッグポール
コースの整備は引き続き進んだ。昭和47年、4ヶ年計画で進められてきたベントグリーンへの張り替え工事が終わった。翌年には、3,700万円かけて、全グリーンに自動散水装置を設置した。石油ショック」「円高不況」にも関わらず、ゴルフ熱は収まらなかった。昭和48年には来場者51,269人と、相模開場以来の新記録となり、49年も5万人を超えた。戦前は1万人、戦後は2~3万人で推移してきただけに、驚くような数字である。
相模では創立50周年を期に様々な事業・工事が進められ、昭和54年12月、キャディハウス改築工事完成、55年3月、新駐車場完成、同年7月コース管理事務所完成、風呂場の増改築。また、地域社会への協力の証として、この年から大和市民ゴルフ大会にコースを提供することになった。さらに近隣の幼稚園の遠足や市民運動会、ゲートボール大会などにもコースを開放した。
これらにサービスは現在も続いているが、これは公益社団法人としての役割にも合致している。また、地元大和市や相模原市の福祉団体にも、毎年、寄付を続けている。
正面玄関わきのフラッグポールは、50周年の記念事業として再建されたものである。もともとは、10番の練習グリーン近くに立っていたが、昭和16年ごろのある夜、落雷により2つに折れ、姿を消してしまったといわれている。
わが国には珍しいマスト型フラッグ・ポールで、相模の名物でもあった。
これは設計者のアントニン・レーモンドが「英国セントアンドリュースのR&Aゴルフクラブがフラッグポールとして19世紀にお茶の輸送などに活躍した大型快速帆船カティーサーク号のメインマストを使っているが、相模でもどうか」と提案したのが始まりだったと伝えられている。
レーモンドは多分、船をイメージしたというクラブハウスとのマッチングを考えたのだろう。
平成の時代
1989 〜 2003
平成元年 から 平成15年
現16番ホール、ティーイング・グラウンド付近
相模のコースは赤星六郎が設計した。赤星は大正末期にアメリカに留学、プリンストン大学ゴルフ部員として鳴らし、
トーナメントにも優勝した。帰国後は昭和2年の第1回日本オープンに優勝、安田幸吉、浅見緑蔵らのプロたちを指導する
など傑出した存在だった。彼は、昭和5年から6年にかけて東京ゴルフ倶楽部(朝霞)や廣野の設計のために来日した
英国のチャールズ・アリソンに同行、その設計思想や技術に影響を受けたコース設計家でもあった。
日本のゴルフ界の大功労者だつたが、昭和19年、敗血症のため44歳の若さで亡くなった。
相模はその赤星が残した最初の、そして傑作コースとして世に知られてきた。
ただ、18万坪に欠ける相模は、決して広いとは言えない。
よく言われることは、相模のコースは中央部はゆったりしているのに対し、外側が窮屈、ということである。
これについて、当時、周囲は原野で、はるかに丹沢・大山の山並みが眺められたことから、
芸術家肌の赤星は豊かな周囲の空気を取り込むために境界ホールをギリギリに寄せたのだという見方もあるが、
ゴルフ場にはOBゾーンが必要であり、赤星は3・6・7・15番の各ホールで場外の雑木林をOBゾーンに考えたのだというのが有力のようだ。
当の赤星は「私のコース設計家としての夢と理想を相模で実現した」としか語っておらず、
コース造成中に赤星と会ったという会員の一人が「敷地が狭いから距離の長いコースがとれない。
その代わり飽きないコースを作ってやるよ、と六郎さんは言っていた」との証言を残しているくらいである。
15番ホールの改造設計図面
昭和62年、理事会の下にコース検討委員会が設けられ、
更に平成3年2月には一歩進めて「コース改造計画検討委員会」が設置された。
同年3月〜9月に改造最終案を作るまで10回の委員会を開催、
平成3年12月4日、臨時総会は「コース改造実施」を決定した。
平成4年、第1期工事として、2・3・8番にサブグリーンを造成、
7・15番に本グリーンを造成した。
平成5年、第2期工事、7・15番にサブグリーン造成。
総工費は、約3億5000万円を要した。
100周年に向けて
2004 〜
平成16年 〜
毎年夏には、KGA主催によるジュニア・スクールにゴルフ場を提供
赤星六郎設計のコースを念頭に置き、「原点回帰」を掲げて、コース整備が続けられた。
また、大地震に備え、築40年のクラブハウスの補強工事が平成18年に行われた。
平成19年から、
地域貢献の一環としてドクターヘリの発着に練習場を提供
相模には、一年の掉尾を飾る伝統の行事がある。
毎年12月30日夕、その年の打ち納めを楽しんだ会員たちであふれたクラブハウスで、それは行われる。
西の空、大山のかなたに夕日が沈むころ、『蛍の光』の大合唱が始まり、そして万歳三唱。過ぎ行く年に謝し、来る年に更なる発展を願う、これが相模恒例の行事なのである。
そこにはゴルフを愛する人々が集まっている。
一歩倶楽部の門をくぐれば、何の隔てなく、あるのはただ長幼の序のみ、である。
平成18年、2006年。
相模カンツリー倶楽部は創立75年の記念すべき朝を迎えた。
この75年間に、相模カンツリー倶楽部でプレーした人の数は、延べ284万5,764人(平成18年7月1日現在)に達した。
(平成26年12月31日現在で318万3,165人)
相模のコースは、一言でいえば「挑戦者には褒美を、逃げる者にはペナルティを与える」チャンピオンコースだ。
意気込み十分の挑戦者を今日も待っている。
ここに至る道は決して平坦なものではなかった。
先輩たちがその道を歩み、バトンを受け継いだ我々は今、
100年の年輪を重ねるべく新たな歩みを始めている。
※倶楽部の歴史は、「相模カンツリー倶楽部75年史」より抜粋しました。